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2008年11月18日 (火)

旅先で思うこと

 よく人の旅行記などを読んでいて、「ここではこれが普通なのに、日本ではそうはいかない」みたいなこと、やはり若干、日本でのやりづらさ住みづらさを強調する様な感じで、書き記したものに出会うことがある。
 確かにそうなのだ。海外を歩いていて、日本の普通がいかに閉塞的で、よくもまあこんな酸欠状態で我慢しながらやってこれたもんだなあと感心してしまうこともある。そして、ときおりこういった閉塞社会の息苦しさに耐えかねて、日本を出たまま帰らない人にも出会うし、そういった人たちの生き生きした表情を見て、この人たちの選択は間違っていないなと思ったりすることもある。

 何が違うのだろう。なぜ日本の世の中は息苦しいのだろう。腕を組んで歩きながらよく考えてみると、話は一つ二つに要約されてくるような気がする。たとえばここアフリカでは、失業者はやたら多い。ただ日本のように、多くの労働者を納めきる職場そのものがあまりないわけだから、仕事がないといっても、それを失業者というのかどうかよくわからない。そして稼ぎ場所がなくてぶらぶらしていても、お腹が減ればその辺にいる誰かが食べさせてくれる。それは家族だったり、友達だったり、近所の人だったりするのだけど、何も食べさしてもらったからと言って、ものすごく恩に着るというふうでもない。当たり前に受け流している。仕事がないというのは、困った状況ではあるんだけど、それで底辺に落とされたわけでもないし、社会の一員という体面はきちんと保っていられる。(盗みとか犯罪に絡むような反社会的なことをするのでなければ・・) 

 ところが今の日本の場合、話が違ってくる。失業者は、何となく脱落者のようなレッテルを貼られて、そこから抜け出すことが、単に経済的理由だけではなく、名誉の回復を押しつけられるような空気のもと強要されることになる。こんなに重たい話はない。誰も好きこのんで、職を失ったわけでもないのに、さらに社会からの脱落者の烙印を押されるのだ。ふんだり蹴ったりとはこのことだろう。子供たちがホームレスに暴力を振るったり、家を壊したりする事件が後を絶たない。この子供たちは、率先して社会のムードを嗅ぎ取って、暴力の先兵になっているだけで、その子供たちを焚きつけているのは、間違いなく今の日本社会に違いない。

 僕にはよくわからない。いったい今の日本の社会がどこから踏み外したのかが・・(でも明らかに踏み外している) 日本がもっとモノを持たなかった時代には、こんなことはなかったのではないか?(と僕は勝手に信じているのだけど) 圧倒的な数の貧乏人と、ごく一部の富裕層だけが存在した時代。そのあたりのことをもう少し知りたいと思う。経済活動を最優先にして、富と溢れかえるモノに窒息してしまった世の中がここにある。人々は病んでいて、正しいことがわからない。

 「今の日本は・・」というのはたやすい。比較して欠点を並べ立てるのは、ちょっとした楽しいゲームのようだ。だけど、どうしてこういう違いが生まれてくるのかという本質を見極めないと、ただの逃避行か、愚痴り屋のおしゃべりさんになるだけのことだ。こんなことを言っている間にも、病んだこの国では目も当てられない不幸な事件が、腐った沼から湧き出してくる無数の気泡のように起こり続けている。為政者の立場にいる人間は、そういった根本には触れることなく、虚構に虚構を積み重ねていくような社会作りに余念がない。

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